リトルの取材こぼればなし


私が取材で感じたことや原稿の一部を紹介します。

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●中学生対象webに掲載した記事「沖縄本土復帰記念日」沖縄の歴史編(99.5.15)

 5月15日は沖縄本土復帰記念日です。沖縄の”本土復帰”とは、どういう意味でしょうか?
いったい沖縄は“どこから”日本本土に復帰したのか、なぜ“日本国ではない時代”があったのか。今週は沖縄の歴史について紹介します。

▼琉球王朝の城、首里城
 沖縄のことを、よく「琉球」と呼びます。実際に1429年(室町時代)から1879年(明治12年)までの450年間は、琉球王国が沖縄島全体を支配していました。 琉球王国といっても、彼らは日本人と別の民族ではありません。本土の人間と同じ言葉や文化を持つ、同じ民族でした(縄文時代くらいまで)。ただ、日本列島からはるかにはなれた場所にあったため交流が少なく、じょじょに個性的で独自の国家を形成していったようです。
 1609年(江戸時代)になると、かねてから琉球征服の野望をいだいていた薩摩藩が沖縄を支配下におくようになりました。 つまり、1609年から1879年までの270年間は、沖縄の人々は琉球王国と薩摩藩の両方から管理され、重い課税がかせられていたのです。当時の琉球王国は中国との貿易が盛んで、歌や踊りなど芸能もとても発達しました。
 やがて明治新政府が成立し、明治4年に廃藩置県がおこなわれると、琉球国はいったん琉球藩になり、そして明治12年に沖縄県になりました。これにより琉球国は城(首里城)をあけわたさなければならなくなり、琉球王国は解体されました。


●中学生対象webに掲載した記事「沖縄本土復帰記念日」沖縄の悲劇編(99.5.15)

 1941年12月に始まったアメリカとの太平洋戦争【第二次世界大戦】は、太平洋にある島々(ミッドウェー島、ガダルカナル島、サイパン島など)でくりひろげられました。
 最初は優勢だった日本軍も、翌年からじょじょに劣勢になってきました。

 1944年10月には沖縄諸島への空しゅうが始まり、翌45年3月23日沖縄本島に本格的な攻撃がおこなわれました【沖縄戦開始】。3月26日慶良間列島に米軍が上陸すると、31日には占領されてしまいました。
 そして4月1日、とうとうアメリカ軍は沖縄本島にも上陸してきたのです。 この日、本島のほぼ中央にある北谷・嘉手納・読谷の海岸に、米軍約6万人が一日のうちに上陸します。そこには数千人の住民がいましたが、日本軍は「捕りょになった者はスパイとみなして処刑する」としたため、多くの住民が自決しました。【集団自決】
 中部を占領したアメリカ軍は、その後40日以上にわたって攻撃を続け、合計で20万トン=60万発の砲弾と、機銃弾3,170万発(日米軍事当局公式数字)の、“鉄の暴風”とよばれる激しい攻撃がおこなわれました。

 いまの君たちと同じ年くらいだった、当時の中等学校の男子生徒たちは「鉄血勤皇隊」とよばれる学徒部隊に組織され、兵隊と同じように戦場で戦わなくてはいけなくなりました。彼らは、箱に火薬をつめた爆弾をせおって相手に突撃したり、伝令・通信の役割をはたしたりしました。同じ文章を3人が持って走っても、やっと1人がたどり着くという危険なものでした。従軍した学徒1,780人中、約半数が戦死したといいます。そんな生徒や教員をまつる『健児の塔』が、沖縄県下9カ所にあります。
 また、高等女学校の学徒たちは、学校別に「ひめゆり部隊」「白梅部隊」「デイゴ部隊」とよばれる、看護活動をおこなう生徒部隊に組織されました。陸軍病院に配属された「ひめゆり学徒隊」は、看護や死体処理のほかに、伝令や水くみという、たいへん危険な任務につかされました。日本軍がてったいすると彼女たちもいっしょに移動し、とうとう沖縄島南端まで来ました。医薬品も食糧品もなくなり戦況が悪化した6月18日、とつぜん軍より解散命令がだされます。学徒たちは、敵の待つ場所に出て行くしかなく銃で撃たれたり、隠れていた穴にガス弾がうちこまれたりして、ほとんどの学徒が亡くなりました。わずかに生き残った学徒も海岸に追いつめら自決しました。こうして犠牲になった217名の生徒や先生の慰霊のために、同じ場所に『ひめゆりの塔』がたっています。

 このように沖縄は日本で唯一、一般住民をまきこんで地上戦がおこなわれた場所であり、十数万人の市民が命を失いました。その数は、日本軍の10万人、米軍の1万2千人に比べてもたいへん多く、当時の県民60万人の4人に1人の割合です。
 6月19日に日本軍は指揮を打ち切ると、23日に指令官が自殺し、実質沖縄での戦闘は終結しました。
 現在沖縄県では、この6月23日を「慰霊の日」として休日にしています。戦争によって亡くなった人の冥福を祈り、世界の平和を願うのです。そして、当時日本軍が最後に司令部を置いた場所に、平成7年6月23日平和の礎という記念碑を完成させました。その石碑には、国籍・軍人・市民を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人の氏名が刻まれています。


●中学生対象webに掲載した記事「沖縄本土復帰記念日」沖縄の戦後編(99.5.15)

 みなさんは「明日から、日本はアメリカのものになります。お金もドルを使い、アメリカ政府がすべてを支配します」と言われたらどうしますか。そんなことが、実際に27年前まで行われていたのです。

 前回紹介したように、沖縄は太平洋戦争で激しい地上戦がくりひろげられ、多くの犠牲者がでました。終戦後(1945年8月15日)アメリカ軍は沖縄を占領したまま、直接支配をするようになりました。米軍が必要とした土地は軍事基地としておさえられ、収容所にいた人は自分の出身地へもどれない人もいました。

 やがて中国が、アメリカの資本主義とはちがう社会体制(社会主義)の中華人民共和国として成立したり(1949年)、朝鮮半島でアメリカとソ連を背景にした朝鮮戦争が始まる(1950年)と、沖縄は“Key stone of the pacific 太平洋の要石”と呼ばれ、ますます米軍基地としての重要性が増しました。
 そして1951年9月には、日本の独立アメリカの沖縄支配が決定したのです(対日米平和条約)。アメリカは、沖縄の長期支配体制を整備し、軍事政策もおしすすめました。アメリカ軍がかかわるベトナム戦争(1960〜75年)が始まると、さらに沖縄の米軍基地が強化されました。

 沖縄にアメリカ兵が増えると、彼らによる犯罪や事故がふえて問題になり、また世界的に、ベトナム戦争に反対する声も大きくなってきました。沖縄では、市民による反戦・反基地の運動が広がり始め、しだいに本土に復帰したいと考える人や、琉球として独立したいと考える人など、さまざまな意見が交わされるようになりました。
 アメリカも、ベトナム戦争によってはたんした自国の経済を立て直すために、経済大国として成長しつつあった日本の協力を必要とするようになりました。そしてとうとう1972年の今日5月15日、沖縄が日本に返還され、本土復帰が実現したのです。

 しかし、沖縄県民の願いが「平和で豊かな沖縄県」の実現だとすれば、日本政府の目的は「軍事基地のうえに安定した沖縄県」をつくるというギャップが残るままの返還でした。 実際、現在でも日本総面積の0.6%しかない沖縄に、在日米軍基地の約75%が集中するという多さです。住民のなかには、「自分の土地を戦争(米軍)に使わせたくない」という反戦地主など、平和を求めるための運動が現在もつづいています。

 初代沖縄県知事であり、本土復帰運動の先頭にたった屋良朝苗(やら ちょうびょう)さんが、生前くりかえし話していた言葉があります。
「沖縄にとって基地収入はばく大である。しかし、それを頼りにするのではなく、基地返還を求めて跡地をどう使うか、県民が真剣に考えることによってのみ、沖縄の再生が可能になる」
 沖縄の人が、平和で安全に暮らせる日が来るよう、私たちもいっしょに考えていきたいですね。

(リトル)

*関連映画のページ 『教えられなかった戦争』沖縄編−阿波根昌鴻・伊江島のたたかい−


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