リトルの取材こぼればなし


私が取材で感じたことや原稿の一部を紹介します。

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●中学生対象webに掲載した記事「日の丸の光と影」(99.7.9) 

 いま、国会で日の丸と君が代の法制化(国旗・国歌法案)が話し合われていますね。7月9日は、江戸末期の幕府が、日の丸を日本の船の印として定めた日です。

 日の丸のとは、日の神様すなわち天照大神をさしています。そして、その子孫だという、天皇をさす言葉です。
 また、日=太陽は、強い力(権力)を示す意味がこめられています。
古い記録には、飛鳥時代(701年)文武天皇の儀式で、日を書いたのぼりを建てたとあります。平家物語では、那須与一という弓の名人が、日の丸の書かれた扇を見事に射た、として登場します。戦国時代も織田信長や徳川家康などが、日の丸を旗に使うことがありました。

 そして、公式の使われ方をしたのが1854年です。「白帆に朱の日の丸を書いて、日本の船の印に」と薩摩藩藩主の島津斉彬が幕府に提案し、それが認められたのです。当時、薩摩藩は船による貿易をさかんに行っていました。それまで藩ごとにバラバラの旗を掲げていたものを、外国の船と区別するために共通の旗にしようと思ったのです。
 このことから、日本の船では、日の丸の旗をあげることが広まり、ひいては日本の国を代表する旗として使われだしたようです。民間に広まったのは、明治初期のころです。

 しかし、法律として定められたことはなく、昭和6年の帝国会議でも大日本帝国国旗法案がだされ、廃案になっています。
 その後、第一次世界大戦や第二次世界大戦で、日本は日の丸を掲げ、アジアなど諸外国を侵略しようとしました。実際に、中国の一部や朝鮮半島を日本が占領した時代があり、日の丸を掲げて政治を行っていました。そのため今でもそれらの国では、日の丸を「侵略した国の旗」として、不快に思う人がいます。
 また日本国内でも、「日の丸が示す天皇のために、家族が戦争で死んだ」として、悲しい思い出を持つ人が大勢います。とくに、激しい地上戦の行われた沖縄や、原爆の投下された広島・長崎の人は、その記憶が強烈でしょう。
 アジアの人も日本の人も、日の丸が天皇の旗として使われた時代を、二度とくりかえしたくないと願っています。また、このような歴史を持った日の丸を、日本の旗として心から誇ることはできないと考える日本人もいます。

 ところでみなさんは、国旗・国歌法案が決まっても、自分の生活にはあまり関係ないと思っていませんか。
 法案では「国旗を日の丸に、国歌を君が代に定める」とするだけで、強制化はしません。しかし、この法案が決まると、学習指導要綱にしたがって、どの学校でも入学式・卒業式などで必ず掲げて歌うことが強制されるでしょう。
もしも、反省すべき過去を持った「日の丸」を掲げたくないとか、先の戦争の統率者であった天皇を尊重する「君が代」を歌いたくない、と思ってもそれは許されないことになるのです。

 もともと自分たちの国家をたたえるものとして、国旗を掲げ国歌を歌うようになったのは、フランス革命からです。幕末の日本は、外国とくにヨーロッパの真似をすることで、文明開化してきました。国旗や国歌もそのひとつだったようです。
 現在ヨーロッパでは、国家の垣根を低くして、EUが重みを増しています。そして、学校で国歌を歌わす国もないのです。

(リトル)


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