ひな祭−その1:いつからあるの?(99.3.2)

 3月3日は、ひな祭です。
ひな祭の歴史は古く、約1000年前の平安時代中期にさかのぼります。このころの人々は、3月はじめの巳の日に、上巳(じょうし・じょうみ)の節句という行事を行っていました。無病息災を願い特別の占い師を呼んで祈りをささげたり、季節の食べ物をそなえたりしていました。そして、人形(ひとがた)に自分の災いをたくして、海や川に流していたのです。

 また、そのころの子供たちはひいな遊びという、今でいうおままごとをしていました。当時の様子を書いた有名な書物である、紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』にも、ひいな遊びはでてきます。人形といっても当時は、紙などで作った簡単なもので、女の子だけでなく男の子も遊んでいました。

 そして長い間に、上巳の節句ひいな遊びがいっしょになって、子供の無病息災を願い人形を飾るひな祭になったようです。

 さて、上巳の節句は先ほど書いたように、3月3日とは決まっていませんでした。もともとこの日には曲水の宴という宮中行事があり、やくばらいをしていました。有名な「曲水の宴」は、3月の第1日曜日に太宰府天満宮で行われるものです。これに流しびなの行事が結びつき、江戸時代のはじめごろから3月3日にひな祭が行われるようになりました。

 ひな祭として一番古い記録は、江戸時代初期の「1629年に京都御所で、天皇の妻が自分の娘のために盛大なひな祭を開いた」というものです。この後、江戸幕府の大奥(将軍の妻など女性だけがいる場所)でもひな祭を開くようになり、やがて町民にも広まっていきました。
 そして江戸中期には、女の赤ちゃんの誕生を祝う初節句の意味も加わり、ますます盛んに行われるようになりました。こうして、現代までひな祭はうけつがれてきたのです。

(中学生対象web原稿よりリトル)


ひな祭−その2:何が飾られてるの?

 今回は、人形や飾りについてみていこうと思います。まず、一番上の段にはお内裏様とお雛様が並びます。もともとは、向かって右にお内裏様、左側にお雛様が並んでいました。しかし、大正天皇の即位の礼のときに、西洋式に天皇が左・皇后が右に立ったのを関東の人たちがまねし、その結果関東では左男雛・右女雛という逆の配置が行われるようになりました。関西では昔ながらの並び方で飾るところが多いです。
 二段目は三人官女、三段目には五人囃子が飾られます。官女もお囃子もそれぞれ役割が決まっており、みんなちがう道具を持っているので、よく観察してみましょう。
 次の段からは、人形のセットによって変わりますが、一般的には左大臣・右大臣が並びます。年をとっている方が左大臣、若い方が右大臣です。なお左大臣の位置は、一番上にいる内裏雛から見て左ということなので、私たちからは逆の右側になります。
 その下に、右近の橘・泣き上戸・笑い上戸・怒り上戸・左近の桜が並びます。このときも、内裏雛から見て右にあるのが橘で、左にあるのが桜です。なんだかややこしい気がしますが、京都の町でも天皇のいた場所(内裏)から見て左が“左京”、右が“右京”というのと同じです。
 最後の段は、タンス・鏡台・お茶道具など女の子に必要な道具や、かご・重箱・牛車などの乗り物が並びます。

 また、ひな祭は「桃の節句」といわれるように、桃の花が飾られます。桃の花は4月ごろ咲きますが、昔の暦では3月3日ころがちょうど桃の咲く季節でした。(そのために現在でも、ひと月おくれの4月3日にひな祭をするところがあります)
 そして、季節の花である桃を飾るとともに、桃の花を浮かべたお酒を飲んだり、桃の葉を入れたお風呂に入って健康を祈ったそうです。そもそも桃には、魔よけの力があると信じられていたので、やくばらいのひな祭にはぴったりだったのでしょうね。

 桃の花と同じように、ひな祭にかかせないものにひしもちがあります。赤・白・緑の三色を重ねたこのおもちは、やはり健康を祈って作られた食べ物でした。
 赤にはクチナシの色素がふくまれ、解毒作用(げどくさよう=毒を出す作用)があります。白い部分には血圧をおさえる作用があり、緑のもちにはヨモギが入っていてり造血作用(血を作ること)があるといいます。
 また、ひし形は心臓をかたどっているともいわれています。

 こうやってみてくると、ひな祭の本当の意味はごちそうを食べることよりも、健康によい食事をすることといえそうですね。

(中学生対象web原稿よりリトル)


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