●大寒と「八甲田山死の彷徨」(00.01.21)

 1月21日は大寒です。その名のとおり、この時季はたいへん寒い日が続きますね。気象庁の記録によると、1902年(明治35)の1月25日、北海道旭川で零下41度という日本最低気温を記録しています。
 ちょうどそのとき、青森県の八甲田山では、厳寒の冬山を歩くという過酷な軍事訓練が行われ、約200名が命を落とす大事故がおきました。この事故は八甲田山 死の行軍として長く語り伝えられています。

 今から約百年前の当時の日本は、1904年から始まる日露戦争にそなえて、軍部が大きな力を持っていました。ロシアと戦うことを意識した日本軍は、敵艦隊が北から攻めて津軽海峡を占領されたとき、青森からの交通手段として冬の八甲田山を通ることができるか練習を行うことにしました。
 冬の八甲田山は、激しい積雪と吹雪で、地元でも行きかう人がない、厳しい山岳地帯でした。しかし、軍隊では上層部の命令に逆らうことは許されず、青森第五連隊弘前第三十一連隊の2グループが、別々のルートから八甲田山を通って行軍することになりました。

 1月20日、弘前第三十一連隊が弘前を出発しました〔右図の緑線〕。この隊は、過去に冬の山岳訓練を行った経験から、きたえられた少ない人数(38名)で、必要最低限の物だけを持って行きました。彼らは地元出身者が多く、吹雪のおそろしさをよく知っていました。そのため、11日間をかけて無理せずにまわる予定にしました。また、地元の村民を案内役にして、吹雪で迷わないように注意しました。
 1月23日、青森第五連隊が青森を出発しました〔右図の赤線〕。この隊は、上層部の意見により215名という大編成で、軍隊に必要な多くの荷物をソリにつみこんで引いていくことにしました。さらに、リーダーシップをとるべき人物の上官が同行することになり、指揮系統がみだれる原因にもなりました。
この日は、先ほど紹介したように記録的な寒波が北日本をおそい、八甲田山でも猛吹雪が吹き荒れていました。兵たちは、胸までうまる雪の中を泳ぐように進み、吹雪で目の前は真っ白くなり、正しい道もわからず八甲田の山々の中をさまよってしまいました。
 1月24日、吹雪の中で道を失った青森第五連隊は、進むべきか避難するべきか迷っていました。方位磁石も凍り動かなくなるような寒さの中、リーダーの神成文吉は、とどまることを考えていました。しかし、その上官である山口ケが、突然「前進!」を告げたのです。このような混乱したなか、多くの兵はたしかな確信もないまま、ただただ吹雪の中を歩くしかありません。寒さで手足が凍傷で動かなくなり、そのまま雪の中にたおれる人が続出しました。なかには、立ったまま凍りつき死んでいる人もいました。〔×印のあたり〕
 1月26日、指揮官であった神成は、とうとう力つきようとしていました。彼は、リーダーでありながら多くの死者を出した責任から、凍りながら舌をかみ切りました。上官の山口は、かろうじて生き残っていた兵とともに、雪の中で避難をしながらそうさく隊が来るのを待っていました。
 1月27日、意識を失いながら、なんとか村へたどり着いた兵が事情を説明し、そうさく隊が出発しました。結局、行軍者215名中、生存者17名(うち5名は収容後死亡、山口は病院で自殺)という、世界山岳史上最大の事故になりました。  一方、先に出た弘前第三十一連隊は、同じころ同じ場所を、反対側から吹雪の中を進みました。彼らは案内人の苦労のおかげで、なんとか村にたどり着くことができました。そして青森へ到着し、弘前までもどるという一周を完結することができたのです。彼らは、一人の脱落者もなく成功をおさめたといえます。

 この行軍は、今となっては「寒さに対するむぼうな人体実験であった」という見方がされています。青森第五連隊は、寒波と吹雪の自然とたたかい亡くなりました。しかし、軍隊という権力によって殺されたと言ってもよいでしょう。
 この記録は、新田次郎により『八甲田山死の彷徨』として小説になり、映画化もされています。彼らがどんな風に八甲田山をさまよったのか、ぜひみなさんも読んでみましょう。

(中学生対象web原稿よりリトル)


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